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永のお別れ会
ばらえてぃ「永六輔を送りまSHOW」昼・夜の部


二つの会の報告を私の感想を交えながら、記録としてお送りします。
(村田亨)

<お別れの会>

去る2016年8月30日11時から東京・青山葬儀所で7月7日七夕の日に83歳で亡くなった永六輔さんのお別れの会が開かれました。会の名称は永さんらしくひと捻り、一寸お洒落でした。親交のあった友人知人、芸能、放送、出版、新聞、音楽など各界関係者とファンら約1100人が参列。

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▲長女・千絵さん、次女・麻理さんの発案のタイトルです。
「父なら、この位の事は考えたかなぁ〜と思って…」

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(撮影・中井征勝)
▲「粋」と「和」がテーマ。
季節の和花に、竹でアレンジした「緑の林」に囲まれて
20代、50代、70代のカッコいい永さんの写真3点が
献花をなさる方の丁度目線の高さに飾られていました。
そのこころは「偉そうにすることを嫌った父らしい空間を…」との事でした。
(さすが永家のDNAであります!)

永さんはいつも開演10分前になると、場内整理と前説を自ら始めて早くから来場した方たちを退屈させませんでした。今回はそれに倣って、ということで元フジテレビアナウンサーの麻理さんがマイクを手に「今日は、本当に沢山の方に列席頂き、やむを得ず第2会場を設けることになり、テレビ画面でご覧頂くことのお詫び、いつも笑い声の絶えなかった父の会らしく、今日は泣かないでください。皆さん、笑って帰りましょう!」などと会場に語りかけて笑いを誘い、定刻になってきたやまおさむさんの司会で開会。

●発起人代表・黒柳徹子さんが『永さんが教えてくれた面白いこと、作った沢山の歌を忘れないように…永さんがいない世の中はつまらない。永さんの亡くなった事は最後の一撃…』など、涙をこらえて時には真摯に、時には笑いを交え永さんへの想いを語りました。
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(撮影・中井征勝)

●各界の人々から送る言葉
皆さん、一つのタイトルだけでは収まらない方々で、放送タレント、作家、タレントとして活躍した永さんのお仲間に相応しいなぁ、と思った次第です。皆さんのタイトル全てを書けませんので手元の資料にある最初のものでご紹介します{矢崎泰久・元「話の特集」編集長、小出孝之・50年近く「誰かとどこかで」を支えた・桃屋相談役、下重暁子(作家)、久米宏(フリーアナウンサー)、中山千夏(作家)、鎌田實(医師)、遠藤泰子(フリーアナウンサー)、小林亜星(作曲家)}のみなさんがそれぞれの想い出を語りました。

●『絶稿』(2015年8月15日の土曜ワイドの中で発表した書き下ろしの詩)を孫で俳優の育之介さんが想いを込めて朗々と読み上げました。高田みどりさんのマリンバが音楽を添えました。

●『送る歌』ジェリー藤尾さん「遠くへ行きたい」ピアノ演奏・前田憲男さん

●遺族代表謝辞・永麻理

●奉納太鼓・林英哲

●参加者献花

●一般ファンの方が数百人、永さんとの別れを惜しんで献花をなさいました。


出口には白紙のはがきが置かれ、皆が思い思いに永さん宛の文章をしたため、懐かしい達磨型のポストに投函出来る、永さんワールドがありました。

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(撮影・中井征勝)

皆さんの想いが沢山、沢山詰まった会で、予定時間を大幅に超えて閉会しましたが、会場周りでは想い出話があちこちから聞こえて、同窓会のようでありました。


<ばらえてぃ「永六輔を送りまSHOW」昼・夜の部>

午後からは場所を「赤坂BLITZ」移して、永さんのラジオでお馴染の仲間たちが集まって、想い出話やら芸や音楽で永さんを面白く、楽しく(笑)の内に送りました。会場はチケットを手にしてのラジオのファンのみなさんで満席でした。

こちらの会も沢山の「永六輔を語る言葉」がありましたが共通語のように語られた中から筆者の私見でタイトル風にお伝えします。
<あの声、あの語り口、あんな人はいない><面白がることを、面白がる>
<楽しいことが好きだから…戦争は嫌い、差別は嫌い!><知られていない人を見つけて、世に知らせる><永さんとの出会いがなかったら、僕はここにいない>という言葉が沢山聞こえました。
そして、昼の部できたやまおさむさんが語った<今日の会を面白くない!と思っているだろう…永六輔、戻ってこい!>ということばが皆さんの気持ちを代弁しているように感じました。

以下、当日の進行表から項目だけを、記録のつもりで転載させて頂きます。

●ばらえてぃ「永六輔を送りまSHOW」昼の部
14時〜16時

《黒柳徹子》「青山斎場お別れの言葉」スクリーンVTR
《外山惠理・はぶ三太郎》「開会の挨拶」

《きたやまおさむ》+《毒蝮三太夫》
《石飛博光》(書家)「席上揮毫」
《伊藤多喜雄》「民謡」/《小島千絵子・舞踊》(鼓童)
《林家二楽+ラッキイ池田》「名人芸紙切り」
《伊奈かっぺい+松島トモ子》「対談」
《オオタスセリ》「コント」
《ピーコ+外山+はぶ》「一、ニのさん太郎トーク」
《萩本欽一》「送別」
《加藤登紀子》「永さん作詞歌完成披露」
《小室等+佐高信+増田明美+伊藤多喜雄》「小室等と仲間たち」
《全員》「フィナーレ」(小室さん仕切り)大合唱「上を向いて歩こう」

 

●ばらえてぃ「永六輔を送りまSHOW」夜の部
18時〜20時

《黒柳徹子》「青山斎場お別れの言葉」スクリーンVTR
《伊奈かっぺい》「東北弁弔辞」⇒外山惠理・はぶ三太郎
《松元ヒロ》+《ラッキイ池田》「トーク」
《デュークエイセス》「生きるものの歌」
《直井棟梁(削ろう会)&ラッキイ池田》「名人芸」
《デーモン閣下+長峰由紀》「対談」
《東京ボーイズ》「ボーイズ」
《ナイツ》「漫才」
《さだまさし》「トーク&ミュージック・遠くへ行きたい」
《猪俣猛+林英哲+永太一郎》「特別編成パーカッション」
(大江戸小粋組共演)
《田中泯》ダンス
(筆者注:ドラムスの永太一郎さんは永さんの孫です)
《大江戸小粋組》「木遣り〜メンバー紹介」

《全員》「フィナーレ」(小粋組仕切り)大合唱「上を向いて歩こう」

以上

 

永さんのおすすめ
森明子

原宿のカフェ

永さんは東京のど真ん中で、
自由に、アクティブに暮らしていて
よくテクテク・・と街を散歩していたみたいだった。
散歩の途中で見つけるのか、
居心地のいいカフェもよくご存じだった。
原宿 ラフォーレ近くの路地を入ったところにある
小さなカフェもそのひとつ。
店内は心地よい静かな空間で、
考え事をするのにちょうどよい暗いエリアと、
落ち着いた光がただよう明るいエリアがある。
コーヒーはしっかりコーヒーの味がして
少な目の量がたまらなく、
トーストされたチーズサンドイッチはカリカリで濃厚。
直接確かめたことはないけれど、
おそらく永さんは、この店の常連さんだったと思う。
たまたまこの店で打ち合わせをしたときに見た、
永さんと店主との雰囲気がそうだった。
一人で考える時間、ひとりで手紙を書く時間
・・永さんはここで
ひとりの素晴らしい時間を過ごしていたに違いない。

島寿司

「今日は君たちにいいものを食べさせてあげる」と、
永さんから招集がかかり
いつもの「遠くへ行きたい」永さんクルーが原宿に集まった。
明治神宮前の交差点、
雑居ビルの5階の居酒屋風の店内へ案内され
何何?と思って座ったら
すぐににぎり寿司がドン、ドン、と並べられた。
八丈島の郷土料理、島寿司だった。
たぶんトビウオを漬けにして、
少し甘めの酢飯でなんとワサビではなくカラシ。
とてもおいしい。
食べやすくてにぎりというより
お稲荷さんみたいな親しみやすいお寿司だった。
我々がうまいうまい!と食べる様子を
永さんは大満足で見ていた。
永さんはあまり食べなかったように思う。
あとで知ったが、
あの日は特別に昼の時間に店を開けてもらったそうだ。
夜は有名な郷土料理店として
にぎわう豊富なメニューの中から
一つだけ「島寿司」を
伝えたい味として選んだのだと思う。
この年、2005年5月に
「遠くへ行きたい」で永さんは八丈島を旅した。

永さんは東京にいても、
全国を旅していても、
いつもまわりをよく見て、
そして「いいもの」を見つけたら、
それを「どんな風に人に伝えようか」と
考えていたんじゃないかな。
人、味、モノ、場所、景色、歌。
ぼんやりしている私の手をとって、
出会うべきものにふれさせてくれた永さん。
永さんがいなくなってしまい、
慌てて記憶の中の永さんとの時間を考えなおしている。

 


負けない心
土橋正道(チーフプロデューサー)

 永六輔さんに先ず教わったことは、テレビの撮影は人の暮らしに闖入する邪魔者の分際だと肝に銘じなさいということだ。メディアを笠に着て失礼な態度を取るようなスタッフがいると、現場から帰ってしまうという伝説があった。

 30代の初め、最初に永さんの「遠くへ行きたい」のディレクターを担当した時、旅の舞台は東京だった。週のうち5日が旅暮らしで、「ぼくにとっての故郷は、行くところではなく帰るところです」と言っていた。それならば永さんの知らない東京を見つけようと、神田明神境内の地下にある麹室を発見しておいた。江戸時代から使われてきた麹室は、戦時中は防空壕としても使われ、永さんは八方へ伸びる行き止まりの穴蔵で空襲の熱で亡くなった人もいたという話にいたく感動していた。それが永さんに認めて貰うきっかけになった。永さんを演出することはできないが、「負けない」というのがディレクターとしての矜持だった。

 永さんは、自分の旅なのに、何故旅する前に番組の企画書があるのかと責める。あらかじめ企画書を書いてプレゼンテーションをしなければならないと知っての上でのことだ。こちらが困り果てても、そうして「遠くへ行きたい」が旅する人のドキュメンタリーだと諭してくれたのだと思う。従って、こちらが用意するトピックには現地の人と必ず撮影に来ますという約束ができない。ロケが始まると、毎日が永さんとの勝負だ。どうやって永さんの気持ちを、こちらが用意したトピックに向けるかだ。それはロケ後の夕食の時間に、食べながらの世間話として仕向ける。それがはまって、スケジュールに組み込まれたときは嬉しい。しかし、一夜にしてひっくり返ることもある。

 朝食の時に、「つちはしさん、昨日一晩寝ないで考えたんだけど、やっぱり昨日話したことは止めて、これとこれをこうしたほうが面白いと思うんだ」「ええ、すごい!それ面白いじゃないですか。そうしましょう。さすが永さん!」と口では話すものの、内心は冷や汗が流れる。しかし、永さんは表現に貪欲だった。どうしたらもっと優しい入口で、視聴者に深く伝えることができるか?どうしたら、笑いを取り入れながら深刻な話ができるか?それは本当に真剣だった。だが、こちらも大変だ。携帯電話もない時代だから、ロケの合間に気付かれないよう公衆電話で連絡を取らなければならない。

 編集では、永さんがこの旅で表現したいと思った精神を、映像表現でいかに深くできるかの勝負だ。永さんを、「おっ、そう来たか」と驚かせたい。ナレーションも書いて用意しておくが、「何でぼくの気持ちを君が書けるの?」と突っ込まれる場合もある。そこで、「こういう風に言ってもらえると流れが視聴者によく伝わると思うんですけど」と、やりとりは果てしない。

そんなことを何回も続けて、やがて仲間意識になり、ついには友人のような付き合いに至る。「あいつと仕事すると面白い」「自分の世界を広げてくれる」と思い合うことだ。大きな存在には「勝とう」と思わないで、「負けない」と心に誓うことが大切だ。



永さんとの旅の初めは40年前でした。
村田 亨(GP・HP編集者)

「遠くへ行きたい」が始まった1970年、
{ディスカバージャパン}のキャンペーンが話題を呼び、
そのテレビ版として誕生した「遠くへ行きたい」、
時代はアンノン族、ひとり旅、
ジーパンの普及で旅はお仕着せのものでなく、
自分で作るものへと変化して行きました。
そしてそんな歴史とともに
「遠くへ行きたい」は旅番組として歩んできました。

今回参加したスタッフは、
永さんと一緒に旅をした世代、
永さんをラジオやテレビでしか知らない世代、
永さんを直接は知らない世代
…と、その幅の広さがまた、
永さんの放送界での長い活躍ぶりを
物語っているような気がします。

今回の番組作りのために、
過去の旅のフィルムやビデオや資料を見た、
文字通りの老若男女のスタッフに、
それぞれが感じた永さんへの讃歌、
番組への想いなど語って貰おうと思います。

まずはイントロ風に・・・
旅の仕方の全てを教えてくれた永六輔さん、
現場で見たものをどう伝えるか、
どうやって見る人を楽しませるか、
をいつも考えていたように思います。

「テレビは嫌い」と言っていた永さん、
実はテレビをとても好きだったんじゃないか・・・
旅に出る前、
旅に出てからも次から次へと
湧き出る永さんのアイディアに、
スタッフは負けまいと、
何時も現場は緊張感にあふれていました。

取材先の皆さんへの礼儀
<撮影をするのでなく、させて頂く>、
テレビカメラが日常を乱さないように、
ということをいつもスタッフに言っていました。

その上で、制作者として
永さんの旅の世界を
どうテレビ画面で見せるか、
を考えながらの番組作りの歴史。
永さんの後から色々な人が
旅人で登場するようになっても、
この想いがあったから、
こんなに長く旅の番組として
続いてきたんだと思います。

そして、そんなこんなが
上手く若い世代に繋がって行くことが、
この秋には47年目を迎える「遠くへ行きたい」の旅が、
生き生きと更に続くことになるのでは、と思う次第です。


特別番組の見どころは、こちらからどうぞ。
特別番組




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