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(c)安野 光雅
 

みどころ

 
         
 

フォーク・デュオとして夫婦で長年活躍するダ・カーポのお2人は、ライフワークとして日本各地の伝承歌を収集されてきました。前回この番組で函館を旅された時は、童謡「赤い靴の女の子」にはモデルになった女の子が実在し、その舞台は実は横浜でなく函館だったというお話に出会いました。
そして今回の旅のテーマとなるのは、長崎県の「島原の子守唄」。この歌、お2人はレコーディングこそしたことがないものの、コンサートでは好きでよく演奏されてきたそうです。ところが江戸か明治の民謡だろうと思っていたこの「島原の子守唄」が、実は戦後に作られた歌だと聞いてびっくり。作詞・作曲を手掛けた作家・詩人の宮ア康平さん(1917〜1980)の奥様がご健在だということで、「島原の子守唄」が出来た経緯を伺うべく、島原半島への旅立ちとなりました。

 


半島を半周する「島原鉄道」の島原駅には、「島原の子守唄像」が立っています。

 
         
 

雲仙地獄巡り

さて島原半島といえば、平成2年(1990)に大噴火した雲仙普賢岳。ここは火山と温泉の半島でもあります。というわけで、まずは半島の入口、雲仙温泉に立ち寄ります。
17年前の噴火の際、島原市は火砕流と土石流によって大きな被害をこうむりましたが、この雲仙温泉は普賢岳を挟んでちょうど島原市の反対側。わずか4kmしか離れていないにも関わらず、大きな被害はなかったといいます。しかし活火山の近くだけあって辺りにはあちらこちらに「地獄」と呼ばれる源泉がブクブクと湧き出し、湯煙をあげていました。
今年の春から始まったばかりというプロのガイド集団「さるふぁ」(英語で「硫黄」の意味)代表の佐々木雅久さんに案内していただきます。

 


湯煙を上げる雲仙地獄を歩きます。

雲仙温泉の中で最も活発に活動しているという「大叫喚地獄」。
平成8年にはすぐ横に新しい地獄が湧き出し、そこにあった登山道が倒壊したといいますから、まだまだ生きてます!

「キリシタン殉教碑」。江戸時代には多くのキリシタンがここで地獄(源泉)のお湯をかけられ、拷問されたといいます。まさに、地獄の苦しみ!

 
         
 

温泉(うんぜん)レモネード

雲仙温泉は、昭和9年に日本初の国立公園に指定された土地でもあります。
戦前の島原半島は大陸との定期航路で結ばれていたので、雲仙温泉は上海などで働く欧米人の避暑地として賑わったといいます。その頃飲まれていたという温泉ならではのちょっとレトロな飲物が、昨年地元観光組合によって復活されました。その名も“温泉レモネード”。しかしこれで“おんせんレモネード”ではなく、“うんぜんレモネード”と読むのです。
実は昔は“温泉”と書いて“うんぜん”と読んだそうで、昭和9年に国立公園に指定された時、郵政省の役人がややこしいからと“雲仙”という文字を当てたとのこと。
さてこのレモネードのどこが温泉らしいかと言えば、それは温泉から湧き出る天然の炭酸水を使っていること。これに砂糖とレモンの搾り汁を少量入れたものが、かつて外国人たちに喜んで飲まれた「レモネード」。元々レモネードとは欧米の船乗りたちがビタミン不足を補うために船上で飲んだものと云われているそうで、“ネード”とは“搾る”という意味なのだそうです。
因みに「レモネード」が訛って「ラムネード」となり、明治時代に「ラムネ」になった…ということで、ラムネやサイダーの元祖というわけです。

 
ちょっとレトロなデザインの瓶です。
ラベルのモデルになっているのは、戦前の雲仙温泉に4ヶ月滞在したという女性初のノーベル文学賞受賞者、パール・バック。

“温泉”に“うんぜん”というルビが見えますね。


「物凄く懐かしい味!」と、まさとしさん。
 
         
 

湧水の町・島原

普賢岳をぐるりと周って、島原市へ。ここは市内に約60箇所の湧き水ポイントがあり、湧水量は1日22万トンという“水の町”。寛政4年(1792)の普賢岳の大噴火で市内のあちこちに地割れが生じ、それが原因で地下水が湧き出したといわれています。

 
島原市は江戸時代6万5千石の城下町。

かつて城の西一帯に広がっていた「武家屋敷跡」にて。
町筋の真ん中にも清水が流れ、飲料水として利用されていたとか。

町屋の水路には鯉が泳いでいました!
 
         
 

しまばら水屋敷

そんな島原市内のアーケードの中に、庭にある池から清水がコンコンと湧き出るという「しまばら水屋敷」があります。島原の豪商・中山一族が明治初期に建てたという商人屋敷。現在は湧水で入れたコーヒーや、島原名物「寒ざらし」などを楽しめる休み処となっています。
ここのご主人、石川俊男さんが15年ほど前から集めているのが「招き猫」。現在その数は1000以上!そのきっかけとなったのが、やはり1990年から始まった普賢岳の大噴火だそうです。いつ終わるとも知れない自然災害は目に見えない精神的プレッシャーを与え、そんな疲弊した心をふと和ませてくれるのが、「招き猫」だったのだと言います。
「まあ人生気楽に行こうよ」。そう言われているようで思わず微笑んでしまう招き猫ですが、よくよく見れば右手を上げているもの、左手を上げているもの、両手を上げているもの、色も白、黄色、赤、黒、金色などさまざま。もちろんそれぞれ意味があるので、石川さんの解説をぜひ放送でご覧ください!

 


庭の池からは、なんと毎秒50リットルの水が湧くといいます。

2階に所狭しと並んだ招き猫コレクションの数々です。

岩手県の郷土玩具「六原張り子」で出来た両手上げの招き猫です。

最近人気の招き猫作家・もりわじんさんの作品もありました。
毛並みまで細かく描き込まれていて、猫の特徴が実によく捉えられていますね。
希少な一点もの以外はお土産として購入することも出来ますが、これはお値段
3万6750円。

 
         
 

猪原金物店

島原半島の商業の中心地でもあった島原市には、古いお店もたくさん残っていますが、明治10年創業の「猪原金物店」は九州で2番目に古いという由緒ある金物屋さんです。このお店のモットーは「こだわって本物、そして一生モノ」。現在5代目ご主人・猪原信明さんは実に勉強熱心で、古今東西の刃物、金物から建築や武具に至るまで本当にお詳しい!何でも明治時代の金物屋さんは、炊事に使う鍋、釜、包丁から、職人が使う秤や鉋や釘など建築建具まで、生活に関わる全ての「金属道具」を取り扱ったのだそうで、今はすっかり姿を消してしまったそんな「明治の金物屋」を目指したい、と猪原さんはおっしゃいます。
こだわりの刃物の数々を見せていただく中で、まさとしさんがふと気が付いたのがショーケースの中にあった砥石。その値段を見てビックリ、なんと1500000円!実はこれ、天然砥石といい、何億年もかけて自然の中で出来た化石の一種。人工的には作る事が出来ない貴重なものだいいます。現在は大阪や京都の宮大工さんくらいしか使わない、“それも仕上げの仕上げ、超仕上げ” (猪原さん談)の段階で使うのだそうです。「砥石は職人の魂、命の次に大切なものだった」と猪原さん。そしてさらに、それがいかに大切だったかという証拠が、お店の建物の中に残っていると言います…

 


江戸末期に建てられたというお店に、新旧の金物が所狭しと並び、ノスタルジックな雰囲気を醸します。

「こだわりの一品」を教えてくださる猪原さん。まるで「刃物博物館」の学芸員といった雰囲気です。

「世界で一番切れるのは日本剃刀です」と猪原さん。
舞妓さんが産毛を剃ったり、お坊さんの剃髪に使われたりするそうです。

貴重な天然砥石。「これで砥いだ鉋で柱を削ると、木が息をするんです」

 
         
 

「島原の子守唄」と宮ア康平さん

さて冒頭でもご紹介しましたが、今回の島原半島への旅、主たる目的は「島原の子守唄」を作詞・作曲された、故・宮ア康平さんの奥様・和子さんを訪ねること。
宮ア康平さんは島原半島の発展に尽くした実業家で、半島の途中までしか通っていなかった「島原鉄道」をその先端まで通した人物です。しかしその時の過労が祟って昭和25年頃失明、島原鉄道の重役から退きました。郷土史の研究家であり作家・詩人でもあった康平さんは、聞き慣れたいくつかの民謡から思い浮かんだメロディーに自作の詩をのせて「島原の子守唄」を作ったほか、歴史小説「まぼろしの邪馬台国」を執筆し、「邪馬台国九州説」の大ブームに火を点けた方でもあります。
その奥様・和子さんは、盲目の康平さんと共に全国の遺跡をフィールドワークし、口述筆記の形で著作を仕上げ、康平さんの目となり、杖となり、ペンとなって支え続けました。
誰もが江戸か明治から長く歌い継がれてきた民謡だろうと思ってしまう「島原の子守唄」。その哀愁漂うメロディーと、歌詞に秘められた「からゆきさん」の悲しい歴史の物語。それが戦後、1人の作家の手で作られたものであろうとは…
康平さんを支え続けた和子さんに、「島原の子守唄」誕生の経緯と、歌詞に込められた意味について、貴重なお話を伺います。

 
康平さんが施設した「島原鉄道」、今も島原半島の貴重な輸送手段です。

康平さんと和子さんは、「遠くへ行きたい」第15回(1971年1月)で、永 六輔さんと出会っていました。
当時の映像を懐かしく見る和子さんと、ダ・カーポのお2人。

宮ア康平さん(1917〜1980)

康平さん直筆の貴重な歌詞色紙を見ながら。そこに込められた島原半島の過酷な歴史とは…?
 
         
 

天如塔

「島原の子守唄」に歌われているのは、江戸時代から戦前・戦中にかけて、島原半島から遠く南方(主に東南アジア)へ出稼ぎに出た「からゆきさん」の物語。
畑作地で米も採れず、海産物もさほど豊かでなかった島原半島南部は、戦前まで貧困に喘ぐ過酷な土地で、海外に出稼ぎに出る人々が後を絶たなかったといいます。「唐」とは元来、中国に限らず「外国」という意味で、「唐ゆきさん」とは「外国へゆく人」のこと。ところがその大半は「上海で良い料亭の仕事があるから」などと騙されて石炭運搬船の船底に詰め込まれ、タイ、マレーシア、シンガポール、ベトナムなど東南アジアの国々で売春婦にさせられた女性たちだったといいます。
島原市内には、そんな海外へ行ったまま帰って来られなかった「からゆきさん」たちの寄進によって建てられた建築物があります。まさしく島原の過酷な歴史を物語る「天如塔」を、和子さんに案内していただきます。

 


明治42年に建てられた天如塔を前に。
あるお坊さんがインド巡礼の帰り、東南アジアで多くのからゆきさんに会い、お布施を託されたといいます。
その額と名前、住んでいる地名が玉垣に彫られています。

和子さんに「島原の子守唄」を聞いていただきました。

 
         
 

鹿牧場

島原市を離れ、島原半島の最南端、口之津へやって来ました。
ここに、宮ア康平さんから影響を受け、康平さんの勧めで鹿牧場を開いた八木高人さんがいらっしゃいます。高人さんが康平さんに出会ったのは中学生の時。
実は康平さんには、島原半島を鹿や牛、羊などを飼育する“牧畜王国”にするという壮大な夢がありました。それは島原半島が作物に恵まれない厳しい土地だったからかもしれません。その康平さんから「畜産科へ行け」と言われて農業高校へ進み、その後獣医になったという八木さんは、やがてフランス牛を飼育する牧場を始めました。しかし事業としてはなかなか軌道に乗らず、そんな時康平さんに「お前、鹿は美味いぞ!」と言われて思い切って始めたのが鹿専門の牧場。こうして、鹿肉と鹿角を加工する健康食品の生産が始まりました。

 


かつて「からゆきさん」たちが出航した口之津の港。そんな港が見下ろせる高台に、鹿牧場はあります。
昭和44年、広大な斜面に開かれた鹿牧場。世界中から集めた7種類の鹿が交配され、約1000頭が放牧されています。

(上)春になると3歳以上の雄鹿に生える「袋角」、毛が生えて柔らかく、体温もあるといいます。中には血液や髄液が流れ、それこそが栄養成分の素なのです。(下)秋を過ぎて骨化した「白角」、硬く中には何も通っていません。


 
         
 

鹿料理

そして、宮ア康平さんが大好きだったという鹿肉料理を味わいます!
鹿肉というと羊肉のようなクセと臭味があるイメージですが、新鮮なものにはまったくクセがなく、サッパリとしてやわらかい。フランスには「ジビエ」と呼ばれる狩猟料理(ウサギ、鹿、鴨、キジ、猪など、狩猟によって獲れる動物を使った伝統的な料理)があるそうで、鹿肉もフランス料理屋に出荷されるケースが多いそうです。

  鹿肉料理のフルコースです!

鹿ヒレ肉のステーキ。箸で食べられ、ナイフが不要です!
(左)鹿肉のコンビーフ(塩漬)
(右)鹿ヒレ肉の刺身
日本最東端・納沙布岬。風が強すぎて会話するのにも一苦労!
 
         
         

「島原の子守唄」と宮ア康平さんの足跡を辿った今回の旅。「からゆきさん」の哀しい物語から見えてくるのは、島原半島の過酷な歴史と自然条件。その中央に鎮座する普賢岳は、今も昔も活火山です。江戸、明治、大正、昭和と激しいマグマを内抱しながら、その時代の変遷を眺めて来たのでしょうか。


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