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(c)安野 光雅
 

みどころ

 

 
         
 

今回から、読売テレビ開局50年を記念して、2週に亘る特別番組をお送りします。旅のテーマは「昭和」。時代が平成に入って20年が経ち、今や「昭和」という時代が過去の懐かしいものになりつつあります。そしてここ数年は、映画「ALWAYS 三丁目の夕日」シリーズや、昭和をテーマにした町おこし、テーマパークの建設などが全国で相次ぎ、今やすっかり“昭和レトロブーム”の世の中。しかし「あの時代は良かった」と言われる一方で、「そんなに楽しいことばかりの時代じゃなかった」という声もある「昭和」とは、改めて考え直してみると一体何だったのでしょうか?
放送開始から38年以上を経過し、旅を通じて日本の変遷を記録し続けてきた「遠くへ行きたい」は、ある意味では高度成長以降消えつつある“古き良き日本の姿”を追い続けて来たともいえます。そんな「遠くへ行きたい」だからこそお見せできる、“今も生きている昭和の風景”を、全国各地からお届けしたいと思います。

 

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第1回は平野文さんが西日本を巡ります。

 
         
 

0系新幹線

さて旅のスタートは、新大阪駅から。昭和39年(1964)、東京オリンピック開催に合わせ東京〜新大阪間で開通した“夢の超特急”、その初代が“0系”と呼ばれる白地にブルーのラインの新幹線。この車輛、先月まで山陽新幹線の新大阪〜博多間で1日3本が運行されていましたが、平成20年11月30日で通常運行から引退しました。ロケが行われたのはその直前、ということで、新大阪駅から昭和の高度成長の象徴“0系新幹線”に乗り、その最後の雄姿を味わいながら旅の始まりです!

 

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まるっこい先頭部がお愛嬌だった“0系”、44年間お疲れさまでした!

 
         
 

尾道へ

まず辿り着いたのは、広島県の尾道。小津安二郎監督の「東京物語」や大林宣彦監督「転校生」をはじめ、数々の映画の舞台となってきたこの町には、戦災を免れたせいもあってノスタルジックな坂道や路地がたくさん残り、まさしく昭和の風景そのままです。

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瀬戸内海に浮かぶ島々を臨む、丘の町。

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ひっそりと静かな坂道や路地が残り、まるで時間が止まっているかのよう。

 
         
  行商

さて尾道では、風景だけでなく昭和の時代からつづく仕事が、まだまだ現役で活躍しています。その1つが、行商。リヤカーや荷車に野菜や魚を載せて売り歩く姿は、かつては日本全国どこでも見られる風景でしたが、この10年でめっきり少なくなり、「遠くへ行きたい」スタッフが知っている限りでも本当に全国で数箇所になってしまいました。行商の良さは、ただ商品が並べられて売り買いされるだけでなく、行く先々で常連さんが待っていて、そこに人と人との何年にも亘る付き合いが続いていることではないでしょうか。行商を続けて40年という魚谷澤子さんに、半日同行させていただきます。

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重たい箱車に新鮮な魚をたくさん詰めて、商店街を巡ります。
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常連さんが集まってきました。注文を受けると、目の前でさばいてもらえます。1人1人の魚の好みまで、魚谷さんは全部覚えているそうです。
 
         
 

櫓(ろ)職人

尾道の港から渡船に乗り、対岸の向島(むかいしま)へ着くと、船着場のすぐそばに大きく“ろ”と書かれた看板のある建物が目に付きます。文字通り、ここは和船を漕ぐのに使う“櫓”の職人・瀬尾豊明さんの工場で、おそらく日本でも数人のお一人。こちらもかつては漁師さんや渡し舟の船頭さんに使われ日本全国で作られていたものですが、今やほとんど見られなくなったものの1つ。中学生時代から父親の仕事を見様見真似で覚え、60年以上櫓を作ってきたという瀬尾さんにお話を伺い、お仕事を拝見します。

 

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“手斧(ちょうな)”という、これも大変珍しい道具が、現役で使われていました!
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少なくなったとは言え、需要は今でもちゃんとあるのだそうで、関東や九州など全国から注文が来るそうです。

 
         
 

鍛冶職人

旅は山陽本線に乗ってさらに西へ、福岡へ到着です。まるで香港のような摩天楼が聳える大都会となった福岡。その中心である博多から歩いて5分ほどの所に、これまた“昭和”を象徴するような光景が残っています。高層ビルとマンションに囲まれた一角に、ポツンと残る小さな工場。ここは3代80年に亘って続く大庭鍛冶工場です。
普段は主に博多包丁を作っているそうですが、1年のこの時期だけ、まとめて注文がくる物があります。それは・・・ヒントは相撲と関係がある物です。
包丁も農具も今や使い捨てという時代、こだわって良い刃物を、と作り続けてきた昭和の職人、大庭利男さんのお仕事を拝見します。

 

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周囲の高層ビルに“カン、カン、カン・・・”と金槌を打つ音が鳴り響きます。
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鍛錬する大庭さんです。

 
         
 

沖縄へ

後半は日本の南国、沖縄へ向かいます。ここで「遠くへ行きたい」には過去何度も登場している藤木勇人さんが合流します。嘉手納基地のある町として知られる沖縄市出身の藤木さんは、今でもここが大好きで住み続けているといいます。すっかり都会となった那覇と比べると、沖縄独特の町並や人々の生活のリズムが残っている沖縄市。普段は旅人の藤木さんですが、今回は“地元の案内人”として、平野さんをガイドして下さいます!

 

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藤木さんと地元の市場へ。那覇の市場よりも地元色が強く、まさしく“庶民の台所”でした。
 
         
 

沖縄の昭和を伝える車

さて沖縄が戦後のアメリカ統治時代を経て日本に返還されたのは、昭和47年(1972)のこと。つまり“沖縄の戦後”はその半分近くがアメリカ統治下だったわけで、沖縄の昭和といえば、アメリカの影響なくしては語れないのです。
 そして、藤木さんと待合せをした平野さんを驚かせたのは、藤木さんが懐かしい車に乗って現れたこと!これが、正に沖縄の昭和を象徴する車だったのです。何でかは、見てのお楽しみ・・・。
この車を38年大切にしてきた地元の山城源治さんに運転していただき、嘉手納基地の町をドライブです。

 

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“沖縄の昭和”を象徴する車で登場の藤木さんに、平野さん思わず拍手!左は持主の山城さん。
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ナンバープレートも当時のまま。
 
         
 

ラブレター翻訳業

終戦後から現在までに嘉手納基地には数万人のアメリカ兵が駐留したそうで、中には地元の日本人女性と恋に落ち、カップルになる人も大勢いたといいます。言葉が通じないアメリカ兵と日本人女性の気持ちを繋いだのが、ラブレター。そのラブレターの翻訳を数万通も行ない、500組以上の国際結婚を取り持ったのが、50年間翻訳業を営んできた仲間徹さん。今では戦後すぐの頃とは違った形で、この沖縄とアメリカを繋ぐ翻訳業はまだまだ現役だといいます。

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かつて“恋文屋さん”と呼ばれ、この事務所の前に女性たちが列を作ったという、仲間さんの仕事場を訪ねます。
 
         
 

カンカラ三線(さんしん)

もう1つ、戦後の沖縄を象徴するものが今も伝えられています。それは“カンカラ三線(さんしん)”と呼ばれる楽器。そもそも三線とは、3本の弦から成る三味線に似た沖縄伝統の楽器で、本来は蛇皮の張られた高価なもの。生活の中で音楽が切っても切れないものである沖縄の人々にとって、“火事があったら位牌と三線を持って逃げる”といわれるほど、大切なものでした。
 しかし戦後の物のない時代、高価な楽器の材料など手に入りようもなく、収容所に入れられた沖縄出身の捕虜たちがそれでも音楽を奏でたいと、身の回りの缶カラや棒切れを集めて作ったのが“カンカラ三線”だったといいます。
沖縄市在住の楽器職人・照屋政雄さんは、少年時代をまさしくそんな時代の中で過ごし、小学校3年生の頃からカンカラ三線を作っていたといいます。照屋さんのカンカラ三線づくりを拝見しながら、終戦当時の沖縄のお話を伺います。

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当時缶カラはアメリカ兵の捨てた缶詰の空き缶、棒切れは収容所のベッドの柱、弦は電話線の中の鉄線を使ったといいます。写真
“悲しくても三線、楽しくても三線”どんな時も音楽を奏で、辛いことも笑い飛ばすのが沖縄流です!
 
         
 

今回佐々木ディレクターが企画の段階から話していたのは、「昭和レトロ」をうたい文句にしている場所ではなく、普通の暮らしの中に「昭和」が残っている所を訪ねよう、ということでした。そうして探してみると、やはりまだまだあるものですね。いかにデジタル技術の発達、アメリカ流のグローバル経済の発展などと騒がれようと、日本人が昭和の時代から大切にしてきた丁寧な手仕事、師匠から弟子へと引き継がれる職人の技、人と人とが向き合っての近所付き合い、そんな風景が日本のあちこちに息づいていました。平野文さんの西日本の旅は沖縄で終わりますが、2回目は丹波義隆さんの東日本の旅。東京を出発して岩手、青森、北海道へと、昭和さがしの旅は続きます。

 

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