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(c)安野 光雅
 

みどころ

 
         
 

今回の旅人・森末慎二さんは、私たちが普段テレビで目にしているままのアクティブな方。毎日撮影が終わってから夕食までのおよそ1時間半、“じゃ、今日も歩いてくるよ”と言って散歩に出られ、8キロ近く歩いて来られるのです。だからこの番組によく登場する“歩き”のシーンでも、歩くスピードが早い早い。
今回の旅先は滋賀県。東海道五十三次のうち江戸から数えて49番目の宿場・土山宿から、52番目の草津宿(つまり京都の2つ手前)までを巡りますが、8キロというと、だいたい江戸時代の宿場と宿場の間の距離と同じなのだそうです。森末さんも“そうか、あれだけ歩いて宿場一つ分ってことは、江戸時代の人は歩くの早かったんだなぁ”とおっしゃっていましたが、そう、江戸時代の旅は当然すべて歩きの旅でした。という訳で、歌川広重の浮世絵さながらの近江の宿場町を、森末さんが“歩いて”巡ります!

 

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東海道五十三次、石部宿から草津宿へと向かう森末さんです。

 
         
 

小幡人形

さて東海道の宿場の旅と言いながら、冒頭はちょっと中山道に寄り道です。武佐(むさ)宿に近い“小幡(おばた)”、ここに街道とは切っても切れない縁のある名物「小幡人形」があります。江戸時代から300年以上も続いているというこの小幡人形。初代の安兵衛さんはなんと街道を行き来する飛脚だったといいますが、それがいったいなぜ人形職人になったのか?9代目の細居源悟さんにお話を伺います。

 

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カラフルな色彩が、まるでアニメのキャラクターのようで可愛らしい小幡人形。

 
         
 

土山宿めぐり

それではJR草津線に乗って、東海道49番目の宿場・土山宿へ。ここから東海道の宿場巡りのはじまりです。鈴鹿峠の難所を背後に控えたこの宿場には、1泊して峠越えに備える旅人が多く、他の宿場に比べて道幅も広く、大きな宿場町でした。今も町屋作りの建物が並んで往事を偲ばせます。

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「土山の町並みを愛する会」の前田潤之介さんに案内していただきます。

 
         
 

土山宿本陣

さて、宿場には参勤交代の大名や旗本、幕府役人などが宿泊する“本陣”というものがありました。本陣には各宿場の"問屋場" 問屋や村役人など有力者の家が指定されることが多く、営業目的のいわゆる宿屋とは違って、一般の旅人を泊めることは許されていなかったといいます。個人の邸宅であったため維持が難しく、明治以降その多くは取り壊されてしまったため、現在でも見られる所は少なく貴重なものです。
土山宿にはかつて本陣職を務めた土山家のお宅がそのまま残されています。13代目に当たるという土山治子さんに、江戸時代初期から伝わるお宅を案内していただきました。

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“え!あの人も泊まったの!?”土山家の宿帳には、日本史の教科書でお馴染みの人物名が並びます。
 
         
 

竹製物差し

土山宿から程近い甲賀市甲南町に、昔ながらの手仕事で作られている道具を発見しました。それは、竹製物差し。私たちが小学校の頃は授業で竹製の30センチ物差しが使われていましたが、最近は文房具屋さんでもほとんど目にしなくなりました。しかしこちらでは30センチ、1メートル、2メートルといったメートル法の物差しのほか、なんと尺貫法の物差しも現役で作られており、京都の呉服職人や地方の建具職人からまだまだ注文があるといいます。岡根勝さん、とし恵さんご夫婦が経営する小さな工場で、20もある工程を経て丁寧に作られる竹製物差しづくりを拝見します。

 

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現在はある程度機械化されていますが、その機械がまた年季が入っています。
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そういえば入っていた朱色の10センチマーク。なんとこうして手作業で1つ1つ塗られているのです!

 
         
 

近江一閑張

さて土山宿から次の石部宿へ移動する道中で、ある職人さんの工房へ立ち寄ります。“近江一閑張”の蛯谷金介さん・豊さん親子です。“一閑張”とは、寛永6年(1629)に明(みん)から渡来した飛来一閑(ひらいいっかん)が考案したもので、竹で編んだ籠に和紙を貼り重ね、防水効果のある柿渋で仕上げを施した器のこと。
しかし蛯谷さんの“近江一閑張”は、その伝統的な一閑張の製法をベースにしながら、実は金介さんが考案した独自の素材で作られているのです。“うちの一閑張は創作なんですよ”という蛯谷さん、いったいどんな工夫がなされているのでしょう?

 

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一見すると竹で編まれた一閑張と変わりない近江一閑張。柿渋の深い色合いが何とも言えない味わいを醸し出します。

 
         
 

石部宿 田楽茶屋

歌川広重による「東海道五十三次・石部宿」の浮世絵には、街道筋にあった田楽茶屋が描かれています。実は石部宿の目川という所にあった3軒の茶屋が、田楽発祥の地といわれているのだそうです。その3軒、現在は無くなってしまいましたが、旧東海道沿いにかつての田楽茶屋そっくりの茶店が再現されています。その名も“石部宿 田楽茶屋”。ちょっと一休みして、昔の旅人さながらに田楽と菜飯(なめし)をいただきます。

 

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番組に登場する広重の「石部宿」の浮世絵と、見比べてみてください!

 
         
 

旧 和中散本舗

石部宿を出て草津宿へ向かいます。その道中のちょうど真ん中、六地蔵と呼ばれる辺りに、かつて旅人の道中薬として重宝された“和中散”の製造・販売をしていた“ぜさいや”というお店がありました。1611年に徳川家康が腹痛を起こした際、この薬を献じたところすぐに治ったことから、全国に名が広がったという歴史的なお店で、寛永年間(1622-1644)に建てられたというお宅がそのまま残っています。大角彌右衛門さん(御当主は代々この名なのだそうです)に案内していただきます。

 

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明治中期まで現役で使われていたという巨大な製薬機。350年以上前に作られた江戸時代のハイテク技術です!

 
         
 

うばがもち

ようやく東海道52番目の宿場・草津へ到着です。ここは東海道と中山道の合流地点でもあり、ここまで来れば京都まではもう目と鼻の先。江戸時代、何日もかけて歩いていく街道の旅は大仕事で、そんな道中の楽しみが茶屋での一服でした。ここ草津の名物は「うばがもち」。腹持ちの良い餅や団子は旅人に大歓迎されたそうで、かつて東海道沿いに建っていた「うばがもちや」で旅人が大勢休んでいる様子が、広重の浮世絵にも描かれています。家康も食べ、蕪村が歌に詠んだという「うばがもち」をいただきます。

 

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ここが東海道と中山道の分岐点。追分道標が立っています。

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餅を餡子で包み、練り切りをのせた「うばがもち」。名前の由来は番組で!

 
         
 

ひょうたん

さて、江戸時代に「うばがもちや」があった旧東海道の街道筋には、今はひょうたん屋さんが建っています。かつて旅人の水筒・ペットボトルの役割を果たしていたのが、ひょうたんでした。昔ながらに1つ1つ手作業で仕上げられる、瓢泉堂のひょうたん作りを拝見します。

 

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1年間に8万個も、手作業で作るんだそうです!

 
         
 

矢倉道標

瓢泉堂の店先には、「右やばせ道この道より二十五町大津へ船わたり」と書かれた道標が現在も立っています。どちらも、京都へと向かう道なのですが、実はちょっと面白いお話があったのです。一体どんな云われがあるのか、瓢泉堂の御主人・瀬川裕海さんに聞いてみます。

 

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遠回りか近道か・・・江戸時代、この交差点で多くの旅人が思案したそうです。

 
         
 

草津宿本陣

先述の通り、東海道と中山道の合流点である草津宿は、かつて本陣2軒、脇本陣2軒、旅篭屋70軒余りが軒を連ねる要衝の地でした。その宿場の頂点に立ち、シンボル的存在だったのが草津宿本陣。現存する本陣の中でも最大級の規模といいます。かつての「田中七左衛門本陣」、14代目に当たる田中文子さんに、案内していただきます。

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細川、島津、松平など、錚々たる大名から本陣として指定されていたという田中家。格式ある立派な式台(玄関)です。
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90人近くの家来が雑魚寝したこともあったという広大な畳の廊下。真ん中の段差から奥は殿様や家老のVIPスペースでした。
 
         
 

江戸時代、庶民にとって“旅”といえば「お伊勢参り」に代表される神社仏閣への参詣か、湯治場への治療旅行が主でした。“一生に一度でいいから、自分の暮らす町や藩から出てみたい”、今で言えば“死ぬまでに1回くらいは月面旅行をしてみたい”というのと同じくらい、遠く、大きな夢だったことでしょう。一方、参勤交代で半年に1回は東海道を行き来しなければならなかった大名にとっては“遠距離通勤の道”であり、豪華な大名行列で自分の力を示す“舞台”でもありました。様々な人と想いを運んだ東海道。その名残があちらこちらで感じられる近江の旅でした。

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